ここは兵庫県中部の山間の小さな棚田の村・岩座神(いさりがみ)。「この先に村があるの?」と思うような道を進み森を抜けると突然、石積みの集落が見えてきます。夏でも空気が少しひんやりと感じる。どこか神秘的な力を感じる村です。千ヶ峰の麓、古くは鎌倉時代に築かれたとされる美しい石積みが今も連なり、澄んだ山水で先人たちは米を作り続けてきました。僕は今、先人たちからそのバトンを受け取り、米作りに取り組んでいます。2024年からは田んぼを本格的に広げ、始めての収穫を12月にようやく全て終えました。面積は2反(テニスコート8枚弱くらい)。しかし収穫量の結果は目標の1/4と酷いものでした。反省点はたくさんありますが、減収の一番の要員は穂が実った時期に鹿の侵入を許してしまったことでした。場所によっては、「収穫」というより「草刈り」をしているような状況でした。
米の収量は散々でしたが、この半年間、日々繰り返すシンプルで奥深い肉体労働の中で思考を繰り返し、水田やその周辺の観察から、様々な気づきや学びがあり、米を作ることの意味と広がりを感じました。それもまた二次的な収穫だったように思います。いや、この半年間の経験とこれからの未来のことを想像すると、この「二次的な収穫」こそが、水田の本当の価値に変わっていくのではないかという予感を感じました。
生き物の集まる場所
「水は命の源」という言葉のとおり、水田には本当に沢山の生き物が集まります。農薬を使わない僕の田んぼでは特に顕著でした。草の茂る水際に網を入れると、獲れる獲れる水生昆虫や両生類。ゆうに10種類は超える多様な生き物が網に入りました。「僕が米をつくることで、このような命が集まりつながる場を作れたのだ」そう思うと、この人生の選択の意味をより一層感じることができました。これらの生物たち(ヤゴ、トンボ、カエル、クモ、水カマキリ、ゲンゴロウなど)は、有機農法では害虫の天敵になることが分かっており、このメンバーの力を借りることは農薬を使わない栽培の重要なポイントになります。
日本では古くから、このように湿地を利用する生き物が人里で暮らしていました。今ではそれらが繁殖できる水田や湿地が減り、少し前まで当たり前のようにいた生物が今では絶滅危惧種になっています。生物多様性の保全は世界規模の環境問題でも主要な課題の一つです。「君あり故に我あり*」という言葉の通り、人間も含め全ての命はつながっているのですが、その価値の数値化が難しく資本主義社会とはほとんど接続できていません。
僕のこれからの課題は、田んぼに集まってくれたこの生態系の価値を、今の社会の価値に翻訳し具現化していくことだと考えています。その一歩目として来年は田んぼの生物調査のワークショップを予定しています。子供も大人もまず生き物に触れる機会をつくることも予定しています。
僕がやらなくても社会の方がこの方向に向かっているような予感も少しあります。極端に言えばある生物を絶滅させる方向への業態の振る舞いは今よりもっと厳しく追及され選ばれなくなる。消費行動に少しづつそんな意識が折り込まれていくのだと思います。そうなった時が、米作りの価値の大きな転換点です。今まで二次的な価値だと思われていたことが大きな価値を生み、米の収穫が副産物に。僕にできることは、そのような方向に社会の意識をほのかに軌道修正していくこと、デザインの領域でできるのではないかと考えています。
*現代インドの思想家/活動家のサティシュ・クマールの言葉
米作り
さて、二次的な価値が重要とは言っても、米を作るからには、もっと沢山、もっと美味しく。と思いたくなるのが人の性。物作りの深い沼があります。5月初旬、籾を苗箱にならべ、苗づくりから始まり、6月に田植え。夏になると水田に生えてくる雑草対策。穂が実る頃には、餌を求めてやってくる鹿や猪との戦いです。気温が下がり、田んぼが黄金色変わるといよいよ収穫時です。
各工程でポイントを外すとそれがそのまま収穫の減収に紐づきます。2024年はたくさんの反省点、課題を来年に残しました。まず、籾を苗箱に播くのに時間がかかりすぎて、田植えの時期が半月遅れました。苗箱一枚につき448個の籾を置くのですが、一箱に30分。40枚の苗箱を作るのに単純計算で20時間。耕作放棄の荒れた水田を整備しながらこの時間を捻出できず、伸びに伸びてしまいました。田植えが半月遅れた場所は、案の定株が大きくならず、大失敗でした。2025年は、自作の籾播き機をDIYして一枚10分に短縮して乗り越える予定です。
田植えでは、今年は地元の多くの方に協力していただきました。協力のお礼には一時間につき米1kgを配当する仕組みにしています。ただし減収の場合はその割合で配当が減るため…今年はほとんど配当できず本当に申し訳ない結果になってしまいました。米を買うのでなく一緒に作れるような仕組みを作れたら良いなと思います。2025年は小さな田植え機も導入します。棚田の複雑な地形のため、小回りの利く手押しの機械を選びました。安全上もしばらくはこれを使います。急勾配の農道を登りながら90度にハンドルを切って田んぼに入るのは、端から見ている以上に怖いものなのです(トラクターごと横転しそうになったり、止まれずに川に引きずり込まれそうになったり…何度も冷や汗をかきました)。
ただ、全てを機械化して少人数で補えるようにすることは、長い目線で見ると持続的ではありません。石垣の補修や水路の整備、山の整備などは、関係人口がおおくなければほとんど不可能だからです。現代の農業は、地域の繋がりをほとんど手放してしまいましたが、やはり農業は、人との繋がりがとても大切なのだと感じます。
雑草対策は、雑草がタネから発芽した瞬間に取り除くことができるかどうか、タイミングが全てです。具体的には田植えから7日以内に除草作業ができるかどうか。何枚もある水田の田植でバタバタと同時進行になるため混乱してきます。スケジュールや段取りが全てです。
夏が過ぎると、穂が現れ、小さな白い米の花が咲き、秋の気配と共に籾が膨らみます。雑草の勢力も弱まってきて、静かな心持ちで、本当に美しい時期です。
そして気温が下がると段々、獣たちが活発になります。田んぼは基本的に電気柵で守りますが、わずかな隙をついて進入してきます。崖を出っ張りをうまく利用して登ってくる者、捨て身で柵を倒して入って来る者。どうしても抑えきれず、一枚の田んぼは殆ど全て食べられてしまいました。冬のうちに獣道を把握することと、次回は電気柵ユニットや柵に更に投資するしかなさそうです。
目標に対して大幅な減収で、様々な反省を残しましたが、総じて農業(特に有機農業)は自然の仕組みを理解して、それを利用すること。このことに尽きると思います。土の微生物の働きを利用し、必要な栄養分をどのように循環させるか。虫やカエルたちの力を借りて害虫を抑え込めるか。雑草それぞれの生態(発芽タイミング、成長の条件など)を理解して対処できるか。鹿や猪との知恵比べ、出し抜くことができるか。地形と風向き、水量や水温、水質。自然に学び、人の営みを自然の一部として溶け込ませることができるか。米作りは、田んぼに出て陽の光に輝く水面を見ながら淡々と仕事をして、そんなことを想う毎日です。身体感覚を通して得られる発見と学びと反省の連続の日々は本当に楽しいものでした。
米をつくると、暮らしが生業になります。身体が強くなります。家族が健康になります。自然を知ることができます。生き物たちが集まり、肥沃な大地を生み出すことができます。僕の好きな村の美しい景色を子供や孫につたえることができます。近く人が集まり、繋がりができます。遠くの人にも食べてもらうことで、さらに輪を広げることができます。
皆様の毎日のご飯が美味しく健康で、その力がまた良い仕事を生み出し世界がつながっていくことを願っています。
STUDIO MOMEN
農家/デザイナー 村田裕樹